昭和五十五年二月十八日 朝の御理解
御理解第二十一節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。 神徳のなかにおっても、氏子に信なければおかげではなし。カン テラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がと もらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
闇の世にも等しい。人間の住む世界に真の信心の光を照らそうとするもの。それが私は、和賀心時代を世界に広げて行くという事であり、創るという事であり、その助かりの手立てを、合楽理念に求めて行くということ以外には無いと私は思います。
司会に信心の光り、云うならば、合楽の光を輝かす、そういう願いがいよいよ成就してまいります様に、そういう願いが真剣に出来るようになると云うことが、信心が大きくなって行く事だと思います。それは信心。信心とは、我が心が紙に向かうのを信心と言うのじゃ。と仰せられるのですから、我が心が神様に向かう、それは自分のことであっても、難儀なことであっても、そこから助けて頂きたいと、神様に向かうということが信心。ね。だからね、そういう信心から、信心がいよいよ分かって来る。
神様を信じて疑わない。いよいよ自分の心を様々な折りに見極めながら、真心の、いわゆる真の人を目指す。
真心にならしてもらう。それがいつの間にか神心に育って行くと、自分の信心が周囲を明るくして行く。云うならば、光明の世界を広げて行く。光輪の和を広げて行くというものではなからなでれば、本当に神様へ向かう、我が心が神様へ向かうと云うことは、ただおかげを頂かねばならないから神様へ、それも神様へ向かうけれども自分の心が一歩一歩神様へ向かって進んで行く。いわゆるこれは、教祖金光大神様の御信心の独壇場でもありますが、我が心が神に向かって行く、生神を目指して行くということが信心。なら、生神を目指すということは、自分の頂く信心の光を周囲に広げて行くということ。ね。やっぱり信心は育って行かねばね。十年経っても、二十年経っても、もうそれこそ近所連なるごと、まずは我が心、我が身におかげを受けてとおっしゃるから、おかげを受けて、信じる心が生まれ、真心が生まれ、神心へ向かうことの楽しみが出来て来るという。まあ、段階というか、段取りをたどらして頂くんですが、そういうふうにたどって行く信心でなからねばつまらん。
一本のローソクの先が、云うならば、身を縮めながらあたりを明るくして行く。ね。 にも身を縮めて行く。自分の身を犠牲にしてと思うのだけど、光りそのものは同じである。ローソクはだんだん縮こまって行く。無くなって行く。その無くなった時が、生神の世界に、いわゆる、神と一体になった時である。ね。
私共は、どんなに子供のために犠牲になるとか、教会のために自分が犠牲になるとか云うけれども、決して犠牲になるものじゃないです。
昨日、 合楽で丁度、日吉さん宅の宅祭りだら、十一時頃だったでしょうか、若先生達が帰ってきて、それから合楽会に参加して頂いて、そんなことを話しておりました。
金光様の御信心は にも自分が一人でバカを見ている様な、自分だけが犠牲になっているようなだけれども、決してそうじゃない。ね。それが云うなら、神に向かって信心が進んで行く限りですね、それが自分の身の徳ともなり、神と一体と云うような働きにもなって行くのですから。一つも犠牲どころか、いわゆる、あの世、この世を通して、おかげの頂けれる力が頂けれる。犠牲じゃない。犠牲になりきるもんじゃない。ね。
そしてね、今日の御理解にありますように、信心なければ世界が闇なりと仰せられるのですから、その闇の世界に本当の光り、真の光を、云うならば、一人一人がいわゆる力の輪を広げて行く、光輪の和を広げて行くという生き方ね、で、自分の住む世界を広めて行くという事。ね。
だんだんおかげを頂いて、昨日、合楽会の時に、佐田先生が、二代金光様、四神様が亡くなられる、まあ御生前に六十年先を楽しめと、楽しみじゃと迎っしゃったらしいです。それが丁度、合楽が発祥した時点がその年月になるそうです。だから本当に合楽が生まれるという事を神様が指折り数えて待ってござって、楽しみの合楽が誕生して、少しづつでも発展、途上にあるという事をね、いわゆる四神様のお言葉を借りると、云うならば、先が楽しみ。何十年先が楽しみという所に、丁度合楽があたっておるということを聞かして頂いて、まあ、いよいよ有り難いことだと思わして頂く。
そのことが頭にあるものですから、終わってしもうて、ここで御祈念をさして頂いて、まあ、いよいよそういう大きな御用にも使うてもらわんならと、願いは、私始め、合楽に御神縁頂いている方達がです、ね、親先生が、いわゆる世界にかけられる願いが、いよいよ成就致しますようにと願っておられるだろうし、私もそのことに命をかけているのである。ね。いよいよ神様が楽しんで待っとって下さった。合楽がだんだん育って行っておることを、教祖様も、四神様も、天地の親神様も、それこそ今日という日を指折り数えて待ってござった。
その合楽がいよいよ発展して行くという事は、いよいよ世界に合楽の光が輝いて行くということになるのです。ね。もちろんこれは、私が思い上がりで云っとるのでもなければ、私が、ならそういうふうにあたっとるというのでもなく、たまたまそういう四神様のお言葉と、合楽の誕生が同じになっているということからヒントを得てのお話しなんです。
それこそ合楽が救世主だ。云うなら、合楽の百人衆がその大同団結して、いよいよ世界の救世主たらんと、意欲を燃やして行くと、それは一つの願いであり、そういう希望というのですから持って悪いという事じゃないのです。私は救世主だと云うて威張るという事でもないのです。又、願わくば、救世主と、後々の世まで言われ、思われる位に、世の中がそのことに、合楽の信心によって助かって行く人が沢山出てくれば、これより有り難いことはない。
四神様が六十年先が楽しみじゃと迎っしゃった。その六十年先に合楽が丁度誕生し合わせておる。だから本当に、神様の、四神様の、金光大神様の、天地の親神様の願いに答えることが出来たなら、こんなに有り難いことはない。
まあ、そんな細々な事、昨日、最後にお礼申さして頂きましたら、“大原麗子”と頂きました。映画女優がおりましょう。どうして、私の所でこういうふうに人がどんどん助かって行くかというと、お前が大原麗子だからだよと神様が言って下さったような気がするんです。ね。大原麗子ということは、腹(原)が大きいということ、大きくなからな、大きなことも願われません。しかも、麗子である。麗とは、うるわしいということ、美麗の麗である。心が美しい。私が、なら、心が美しいとも、大きいとも思わんけれども、だんだん信心の稽古をさして頂いてね、稽古さして頂くにしたがってね、腹が大きゅもなって行きゃ、心が自分ながらも美しゅなっていく訳なんです。ね。だからね、いよいよ大原麗子を目指さねばならない訳なんです。
昨日、野村さんのお導きで、しばらく熱心に参って来ておった方が、久しぶりにお礼に出て来ました。息子さんが、高利貸の金を借りてどうにも出来なくて、その行得不名になられた。それで、お願いにみえて、それからもう一、二カ月もなりましょうか。お参りがなかったと思いよったら、昨日はお参りしてみえて、お礼参拝でした。おかげで、息子の居所も分かりました。と同時に、もうどげん考えてもこれだけは人に言うてくれるなと言うて、口止めされてから、そのサラ金の社長が見えてから、あんたん所のは棒 きすると言わっしゃったげな。こげなことを。高利貸が、貸した金やら、利子やらを棒 にするなんて。いよるなら、実際には倒れるて、ばってんあんたん所の場合だけは、その棒 きすると言うて帳面証書を返しに来なさったげな。広大なおかげを頂いてと言うて、昨日、お礼のお届けがございました。ね。
今頃から、 佐賀の所にも、 サラ金の、それは保証に立っといてそれこそもう一家中の命をさらすような恐ろしい事を言われて、逃げて廻っている人が、佐賀の支部の神様の事を聞いて、お願いに見えて、おかげで、翌日はその、云うならば、親分がそれこそお土産持って、子分たちが、偉いことを言うたそうですからと言うて、断りにいらっしゃったて。
どげん考えてん、それこそ神様のそのすさまじい働きと思わずにおれないですね。なら、健康の上にも、昨日、何人もお届けがございましたが、稲垣さんがお届けなさるのに、丁度、十三日会にある方をお導きさして頂いて、自分のご主人の上役にあたられる方で、収入も年間千万からあるほどしの、まあ高給取です。そういうふうで二人だから、不平不足など言われることはないのだけれど、いつ行っても不平不足でいっぱい。そんなら、金光様にお参りなさいというと、神様なんて、と言って問題になさらんだった。ところが、今頃から、病気になって、寝たきりで、まあ、いろいろと難儀があるので、と思っておったら、向こうの方から「あなたの参りよる所へいっぺん連れて行ってくれ。」と、しかも十三日であった。それで、お導きさして頂いて、まあ、参って見えた訳です。
もう全然ご飯が駄目で、お粥さんが少しのどを通す位であったところが、ここに見えてる間に、「稲垣さん、おなかがすいた」と言わっしゃるそうです。そんなら、そこにうどん屋があるからとうどんなっとん食べましょうかと言うて、うどん一杯ペロッと食べらしたと、おいしかったと、ちょっとこげな
本人は、おかげと分からないけど、側にいる稲垣さんは、まあなんと素晴らしい事じゃろうかと思うたとこう言うのです。
十三日会が始まった。宮田先生が発表しておる半ばにもじもじしなさるけん、どうしなさったじゃろかと思いよったら、便所に行きたいと言いなさるげなむん、この先生の良か話のあいよるけん、これがすんでから行きなさいと言うたならば、大の方じゃからもうもてんといわっしゃるげな。そんなら、二人一緒に立つ訳にはいかんけんそこじゃからと言って、教えてあげて、帰って来てからです。もうその のため、キバリも出来ない病気だそうですから、もうとにかく長い間便所に行ってなかった。それがこげん沢山はいっとったじょろかというごと、いわゆる快便であったというて、稲垣さんに話される。この神様の働き、すさまじいのに稲垣さんのほうが、お導きした人より恐れいってしもうたと。食べられんものが食べられ、出らんものが出るようになるというようなね。日々、そのようなおかげが毎日、奇跡と思われるようなおかげを合楽で頂いておるという事はどういう事かと言うと、それによって、皆の心を神様に向けさせよう、しかもそれから育てよう、又、育ってくれよという働き以外にはない。ね。かと言うて、そんならあの棚からボタもちのようなおかげが連続するということはございません。けども、そこから信心、真心、神心である。ね。
昨日、合楽食堂の中村さんがお届けされますのに、徹美先生の弟です。弘之さんと言います。左官をしよります。それが昨日来てから、おもしろい夢を頂いたという。どげな夢だったのというたら、その家に大きな亀をこうとるげな。風呂場につないどる。これは、実際の話、それがぬっかけん行きとるという訳です。ところが夢の中で、まむしが出て来た。それをヒラクチが亀を飲んでしまうというお夢を頂いたというのです。どういう事だろうかと言うて、昨日、お届けにあって、ほう、それは面白かこつの、亀ちゃまあ私の事と言われるが、亀が毒ヒラクチに飲まれちしもたとはどういうこっちゃろかと言いよったら、これを頂いたんです。これは十三日回の日に本部の方から、渕上先生が来とりました。そして、これは教祖様が亡くなられる数日前にあるお知らせが、一冊のなるというかまとめてあって、それが出て来た。それに研学の先生がいろいろ研究しておられる。その中心になるのが、今頃、講演に見えた先生の講題が身代わりの信心がということが書いてある。これその極秘になっているので発表して良いか悪い分からんのだけれども、先生方がこれに取り組んでいるけども、その真意が分からないという。それを渕上先生が書いて来とりますが、こう書いてある。
「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする。金光大神、比礼のために書き留め。」と、書いてある。金光大神比礼のため書き留めと書いてある。それがまあ、訳が分からないね。まあ、人民ということは、神様の目から総氏子というのであろう。大願の氏子助けるため、それで私が頂きましたから、中村さんに、それはこういうことばい。夕べも共 会で、弘之さんが頂いとるお夢で、この難しい、その解明が出来たような気がすると言うて、夕べもこの事を話したんですけども、ね。長男の徹美先生が、それこそ一心、全身全霊を神様に捧げる。そして、人の難儀がそれこそ助かるために、今、精進中である。ね。云うなら、ここで申しますと、大願の氏子助けるため、ね、云うならば、長男が人が助かるために奉仕させて頂いておるのに、なら、その一人の弟であるあんたが、弘之さんがね、もし事故にでも会うたり、難儀な、まあ、信心しよってどうした事じゃろかと云ったようなことが起こったんではいけんから、親先生がいつもあんたのために、身代わりになってござるよと。毒ヒラクチが亀を飲んだということは、云うなら、親先生が、云うなら身代わりになって下さっておるよ。それは徹美さんの所で、沢山の人が助かることのためのというふうに頂く。そして、これをもちっと大きく申しますと、云うなら私が大願を立てておる。大願の氏子でなからにゃいけんのです。細か願いどんしよってはいかん。大願氏子のために神が身代わりになるとおっしゃる。ね。もう七十いくつにもなられて、例えば、大阪の泉尾教会の先生なんか、それこそ世界をまたにかけて世界の人間が助かることのために、もう今頃から、インドから、南方の方へと行っておられます。大きな大願を立てるその氏子のために神が身代わりにさすと迎っしゃった。だから、小さい願いじゃない。だから、合楽の場合でも、只今のように願いが大きい。だから、これをさっきのような表現で言うと、大坪総一郎の大願が成就する事のために、神が身代わりになると、こうおっしゃる。それは、結局は、金光大神比礼のために書き留めるとあります。だから、お互いの願いが口で云うことの願いなら、どげな大きな願いでも出来る。けれども、心からその事を願わずにはおれない。合楽の建設の事でもそうである。本当に 一枚でもという。これは真心であり、貧者の一燈で美しい。けれども、それがもうちっと大きくなったら、教会の事柄を自分の事として、一生懸命ならしてもらう。いや、教会の事ならば、自分の事以上にというような、思うだけじゃない。願うだけじゃない。それを実行に移した時にです。始めて、氏子のために身代わりになられた、金光大神の光が、いよいよ比礼となって現れて来るということになるのじゃないでしょうか。ね。
信心なければ、世界は闇なりと迎っしゃる。だから世界が光り輝く様な願いを立てて、私共が、我が心が神に向こうて行かなければならない。ただ頑張っとります。日参りよります。だけではなくて、我が心が、いわゆる、信心から真心、そして神心と、神心にまで、云うならば信心の光が燃え栄えて行く。しかもそれはローソクの光の様になる程、燃え栄って行くほどに身が縮まって行くのだけれども、それは、決して犠牲なるのじゃない。金光大神、身代わりになって下さったということでも、金光大神が亡くなられる数日前にこのことを頂かれて、身は亡くなられた。けれども、生神金光大神として、いついつまでもとこしへまでも、世の云うなら、救世主としてその名が止まり輝いて行くことであろうようにです。ね。その後を受けておる私たち、合楽においても、例えば、そういう大きな神の願いがかけられておると自覚して、ね、小さい願いから大きな願いに移って行けれる信心の手立てを工夫して行かなければいけないというふうになるのではないでしょうか。
何年経ったっちゃ、 我が息子のことばかり、 もうただ自分の店が繁盛するばかり、 ね。 そしてね、口では教会大発展の御神願、御成就にあいなりますようにというておるだけじゃ出来ん。本当に御神願が御成就になる事のために、自分が身を呈して、そのことに取り組まして頂くというような信心を今日は聞いて頂きました。ね。
信心なければ、世界は闇なんです。ね。だからまず、自分の心の中に光を頂き、自分の光が自分の一家、自分の周辺、いわゆる光の輪がだんだん広がって行くような信心の徳を受けたいね。金光大神、比礼のために、教祖金光大神が、ね、身を犠牲にして下さる。その犠牲になる働き、その比礼の現れは、どういうふうに現れるかというと、大願の氏子のためにとある。大きな願いを持っておる氏子のために、金光大神の比礼は、いよいよ輝かしいものになっていくだろうということになるのです。
大変、至難な御理解がまあ、一部解明されたような気が致します。この前見えた講師の先生が、合楽に今度は三日位勉強に行きたいと、今度は話に行くのじゃない、話を頂きに行くのだと、今頃、渕上先生にことづけられたと云うことです。そして、このようなことが本当に解明されることになったらね、教典編纂の役に立つようになるかもしれません。
これはね、教祖様のお言葉というものは、人間の頭からひねり出したのでは駄目なのです。やっぱり神様の御神意を頂いて、これは、こういう意味だよと分かるためには、合楽がお役に立たして頂く。時節もまた、来るように思います。ね。ためには、皆さんがそういう教えに日々頂いておられる方達が、いよいよ実験して、実証される、各々が信心の光を各々が持てれる位な信心に育って頂かねばならんということになります、ね。どうぞ。